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姉ケ崎 五大力船の歌で泣く

五大力船                                         H15.5.11

江戸
市原の江戸湾沿岸には八幡・五井・姉崎・青柳・今津・椎津の湊があり、内陸部から川舟や馬背で運送されてきた年貢米をはじめ薪炭・材木などがここで「五大力船」に積み替えられて江戸へ送られました。江戸からの戻り船には衣糧・雑貨・肥料・砂糖・醤油・酒などが積まれました。
船は、長さ31尺(9.4㍍)から65尺(19㍍)、巾8尺(2.4㍍)から17尺(5.1㍍)、50石から500石積みの帆船でしたが、海上からそのまま河川に入れるよう一般の廻船より細長く、喫水(きっすい:船底から水面までの長さ)が浅い船型でした。
江戸時代には、こうした海川両用のため、川舟と同様に年貢銭賦課対象とされていた。
『五大力』の名は、重い荷物を運ぶので『五大力菩薩』からとったとされている。
上は『五大力船(若宮丸)の模型』:姉崎小学校 蔵

江戸への廻船として『押送船(おしおくりせん:市原地方では”おしょくりせん”とも言う)』もあった。これは帆走は五大力船と同じだが、五大力船より小型で細身の流線型をしており、櫓を使いより早く江戸に着くことができた。船槽に海水を注入できる生簀が設けられており、漁獲物、特に鮮魚の搬送に利用された。

『五大力船』は昭和初期まで活躍をしていた。『五大力船の最後の船頭』の方々のお話(昭和48年録音)から、当時の姉崎の五大力船の様子をご紹介致します。

皆様による『姉崎五大力船の唄』(WMA 366K  2分22秒)

最盛期には姉崎には船持ちが15~16軒ありそれぞれ1~3杯の『五大力船』を持っていた。
東京へは主に米、藁、薪、松葉などを積み出し、戻りには砂糖、大豆、小豆、鰹節、醤油、酒などを積んできたが、積荷は依頼主により様々なものを積んだ。
河岸の澪(みお:五大力船をつけるための深い堀割)に五大力船をいれ荷を積み込み、潮が潮が引くと船が澪から出られなくなるため、潮が引く前に沖に出る。
潮の具合にもよるが大抵は夜が明ける頃に船出する。
沖で帆柱をたて、錨綱(いかりづな:普段は20㌔程だが大風などのときは40㌔程度に重くする)をあげ、大柱、表柱の順に帆仕立て(ほじたて:帆を巻き上げる)をして船出する。
風が良いと品川まで2時間半位で着くが、悪ければ一日走ってもあまり進まず、諦めて羽田沖から姉崎に戻って来ることもあったという。
船には2・3人(船頭1人、その他は乗り子と呼ばれた)が乗り込んだ。みんなそれぞれ「刺青」をして不慮の際、身元が分かりやすいようにしていた。
乗り子は毎年、店や船の名前が入った印半纏が「船持ち」から配られ、これに「めくら縞股引(ももひき)」の姿で吉原などに繰り出した。船乗りは気風が良いのでモテタそうである。


参考文献
  「市原市史 中巻」昭和61年 市原市  
   録音テープ提供  谷島一馬氏(千葉県文化財保護協会評議員 島野在住)

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