チベット(中華人民共和国・西蔵自治区)問題
チベット(中華人民共和国・西蔵自治区)問題
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~TIBET/tibetp.htm
1950年の中国人民解放軍によるチベット侵攻以降、中華人民共和国の占領下よる犠牲者は、ラサ・チベット亡命政府の推計によれば、虐殺された人数に戦死者、強制収容所での死亡者、餓死者を含めるとその数120万人に達するという。1949年当時のチベットの推定人口が600万人であるから、この推計によれば、ほぼ20%のチベット国民が何らかのかたちで中国の手によって殺戮されたことになる。また虐殺をま逃れた者でも刑務所、強制収容所に収容された経験のある者は、これもラサ・チベット亡命政府の推計によると10人に一人の割合であるという。また、1956年以降の蜂起では11,500あった僧院・寺院のおよそ9割が破壊されたという。また、15万人いた僧侶は中華人民共和国の発表でも1500人にまで減少した。近年では中華人民共和国政府の入植政策に今までに1000万人もの中国人が入植し、チベット人の民族的独自性が危機に瀕しているとされ、また森林の乱伐や核廃棄物の投棄による環境破壊も懸念されている。
1989年に天安門事件と同時期に起きたチベットの独立運動は天安門事件以上の死者、行方不明者を出したにもかかわらず、世界にほとんど報道されることはなかった。最近では1999年前半に中華人民共和国・ウイグル自治区で起こったテロ事件や1999年後半に都市部で起こった法輪功事件以降、中華人民共和国内における少数民族・宗教に対する警戒・弾圧は激しさを増してきている。昨年のカルマパ17世のインド亡命後にはその責任を口実に多くの僧侶が逮捕・投獄されているという。さきの全人代ではダライ・ラマ14世を反動分離主義者として激しく非難し、最近ではダライ・ラマ14世の訪日に対したいへんに強い圧力を日本政府に対してかけた。今日のチベットの情勢は悪化する一方である。
チベット問題は数多くの要素を内包しているが、その中で特に(1)チベットの独立主権国家としての正当性(2)中華人民共和国による残虐行為の違法性(3)チベットに対する国際社会の対応、を検討する。
1、 チベットの独立主権国家としての正当性
ア,中華人民共和国政府のチベット侵攻まで(~1950年10月7日まで)
1949年10月共産党軍は中国本土の大部分を把握すると、人民解放軍は1949年9月29日 中国人民議会において満場一致で可決された朱徳人民解放軍最高司令官の一般要綱(革命戦争の終結と、台湾・台湾海峡の64の島々、海南島そしてチベットを含む中国の総ての領土の解放を求める)に基づき、「チベット人を外国の帝国主義者より解放するための進軍するであろう」と発表した。チベットはすぐに中国とチベットの関係は施主とラマのそれであり、チベットは中国の一部であったことは一度もなく、またチベットを支配する外的勢力などそもそも存在しない以上、外国の帝国主義者よりの解放など必要ないと強く抗議した。
この抗議に続き1950年の10月インドのデリーにおいて中国(この時点では中華人民共和国)とチベット政府の間に代表交渉の場がもうけられた。この交渉において中国側はチベット側に対し(1)中華人民共和国はチベットの国防問題を処理する(2)チベットは中華人民共和国の一部であること認めるという2点に同意し、協約を結ぶことを迫った。当時チベットには英国式訓練を受けた2個連隊とモンゴル・ロシア式訓練を受けた1個連隊、中華民国式訓練を受けた1個連隊、日本式訓練を受けた1個連隊があり、国防の点において不備はなく、中華人民共和国の一部であること認める理由も必要もなんら存在しなかったためチベットはこの要求を拒否した。中国側のこの要求は明らかに今日確立されている自決権の内容に著しく抵触するものであり当然チベット側が納得できるものではなかった。
その交渉の最中の1950年10月7日に人民解放軍は宣戦の布告なしに東チベットに急襲をかけ侵攻を開始した。25日には中華人民共和国は「300万のチベット人を帝国主義者の弾圧より解放するため、また中国西部国境線の防衛強化のため、人民解放軍のチベット進軍を命令した」と公式に発表した。
この中国側の発表は理解に苦しむ。はたして、このようなことが「侵攻」の正当化根拠に成りうるのだろうか。唯一考えられるのは、「外国の帝国主義者の弾圧」を「他国からの武力攻撃」としてとらえ、自衛権の行使として位置付けることであろう。しかし、それは、チベットが中国の領土の一部であり、中国の主張するような「外国の帝国主義者による弾圧」が実際に存在したのならばという前提で、である。しかし、以下に述べるようにチベットはまったくの独立した「国家」であったばかりか、「外国の帝国主義者による弾圧」はそもそも存在しなかったのである。
「チベットの国家としての根拠」
チベット独立の国際法的な最初の明確な根拠は1912年の辛亥革命により清朝が滅亡後、亡命先のインドからイギリスの支援を受けたダライ・ラマ13世がチベット本国に帰還して行なったチベット帝国独立宣言であろう。
1913年にはその独立宣言に基づきチベットとモンゴルの間で満州人(清国)からの独立を宣言し両国の友好の強化、相互の独立の承認を内容とするウルガ条約が結ばれた。
「国家の権利義務に関するモンテヴィデオ条約」の第1条によれば、国際法上の国家は(A)永久的住民(B)明確な領域(C)政府(D)他国と関係を取り結ぶ能力。を持つ必要があるとされている。吐蕃王国の成立以降、チベット語を話し独自の文化・価値観を有するチベット人の現チベット領域への定住とその後2100年間のチベット文化の隆盛は歴史的事実であり、その領域はシムラ協定を始めとするいくつもの公式な文章においてそれぞれ、中華民国、英領印度(当時)、ネパールとの間に取り決めがなされていた。また、ダライ・ラマを頂点とする政府組織、内閣制度が確立しており、内政・外交ともによく整備・統治されていた。さらに、1914年には、英国との間にシムラ協定を締結したのをはじめ、英国との対独援軍に関する覚書がなされ、1942年末にはアメリカはチベットに対して連合国27カ国の一員として参戦し、対日戦に協力するように申し入れた。(チベットは中立を表明)1947年3月には第1回アジア諸国間会議に参加し、10月にはインド、イギリス、アメリカ、中華民国に通商使節団を派遣している。1949年11月2日 チベット政府は毛沢東に、チベットの独立の立場を述べ、領土が侵略されないよう求めた手紙を送った。チベット外務局は当時のイギリス外務大臣アーネスト・ビバンに、イギリスからの支援を短信で求めた。同様のことをアメリカにも求めた。 1949年12月3日 カシャ内閣はイギリス政府に、国連へのチベットの参加を支援するよう求める電報を送っている。
以上のようなことからもわかるように、当時のチベットは中国の主張するような「切り離すことのできない中国の一部」ではなく、明らかに一つの独立した「国家」であった。 そして、何よりも、1947年の毛沢東によるチベット独立を認め、それを歓迎するとした発言の存在は中華人民共和国自身がチベットの国家としての独立を認めていたことを示す明白な証拠であろう。
「外国の帝国主義者による弾圧」
次に、「外国の帝国主義者による弾圧」の存在についてであるが、幾度かの衝突をくりかえしたイギリス(英領印度を含む)とも1914年7月3日のシムラ協定調印後は友好な関係を保っており、それ以降の英国からの弾圧の事実はない。また、中華民国との数度の戦闘も42年以降は発生しておらず、その原因となった中華民国は台湾へと渡ってしまった。ネパールとの衝突も、189X年の条約締結以降発生していない。そもそもネパールとの衝突は、ネパール国のパルポ商人の一人がチベット国の一婦人に対し侮辱的扱いを行ったことがその発端であり、それはチベット国内のネパール人排斥運動につながったが、その時の被害者は、賠償過程を見てもわかるとおり、ネパールである。また、河口慧海師の「西蔵旅行記」の記述からはチベットのその鎖国政策・外人排斥政策の徹底ぶりが随所に指摘されている。なによりも、チベット政府が世界に向けて発表した「チベット指導者による声明」には、「……いったい誰からの、何からの解放なのか?1950年に中国に侵略されるまで、チベットは温情ある政府と心満ちた人民からなる幸せの国であったのだ。」と述べられていることはその最も大きな証言であろう。中国の主張するような「外国の帝国主義者による弾圧」はそもそも存在していなかったのである。
イ、 中華人民共和国政府のチベット侵攻から「チベット平和解放に関する協約(いわゆる十七条協約)」締結まで(1950年10月7日~1951年5月23日まで)
1950年10月7日人民解放軍のチベット侵攻に対しチベットは即座に中華人民共和国に抗議を申し入れるとともに、インド政府に共産主義勢力の東チベット侵略を通知した。
10月26日にはインド政府は中華人民共和国に対する抗議を行ない、イギリス議会・政府も同様の意見を表明した。
11月11日にチベットは窮状を国連に打電した。同月、エルサルバドルは正式にこの問題を国連において提起した。しかし、ここでインド代表が国連での討議なしでチベット・中国・インド間において有利な解決を図ることができるとして、チベットの提訴を延期するように国連の委員会を説得してしまった。これは、後にチベットにとって大変な痛手となった。
同年内にはインド政府・議会はチベットを「平和を愛好する国」「隣国」「偉大な隣国」とし、チベットの独立が保たれるよう中国に強く求める声明・決議を何度も発表した。
この時点まで、国際社会においてチベットは明らかに独立国として認識されていたことに間違いはないであろう。
ウ、「チベット平和解放に関する協約(いわゆる十七条協約)」締結からラサ決起まで(1951年5月23日~1959年3月まで)
1951年5月23日、事態打開のため北京を訪れていたザサー・ソナム・ワンドウー氏、トウプテン・テンダル氏らの代表団ならびに、人民解放軍侵攻の初期の戦闘で捕虜になったカプー・カワン・ジグメ氏らは中華人民共和国により軟禁状態におかれ、脅迫・恫喝・強制の下にやむなくいわゆる十七条協約に調印した。この際、この調印に関してチベット代表団は本国チベット政府に対してなんら支持を仰ぐことも許されず、また連絡も一切とることのできない状況に追いこまれ、北京で偽造された印璽による調印であったことに注目する必要がある。
国際法的観点から見て、このいわゆる十七条協約の法的効力は明らかに否定される。強制の下で締結された条約の法的効力については、通常、国の代表者に対して強制がなされる場合と、国自身に対して強制がなされる場合とに分けられるが、チベットのこのようなかたちでの調印は前者に分類され、これは伝統的国際慣習上からも明らかに無効であるとされているからである。また、強制の下で締結された条約が無効とされることは「条約法に関するウイーン条約」でも認められている。もっとも、同条約の発効は1980年であり、十七条協約の法的効力の無効を同条約を根拠として主張することはできない。しかし同条約の第52条の遡及適用の論議において、その遡及を国連憲章制定時までとする意見でほぼ一致している今日、同条約の批准国である中華人民共和国にたいして、同条約の立法趣旨の再認識を求めることは可能なのではないだろうか。
以上のことにより、十七条協約の法的効力の無効は明らかであり、この協定を根拠とする中華人民共和国の一連の行動は正当性を有しない。
しかし、協約調印以降、中華人民共和国はチベットにおけるあらゆる行動の正当化の根拠としてこのいわゆる十七条協約を振りかざすことになり、中華人民共和国のチベットにおける侵略行為はさらにエスカレートしていった。
エ、「ラサ決起」以降(1959年3月以降)
1959年3月、それまでの中華人民共和国による暴虐な振る舞いに対してチベット人は決起した。しかしこの決起も、質・量に勝る人民解放軍に鎮圧され、チベット軍人・ゲリラ兵のみならず、何万という民衆が殺された。(この決起に関連して当時、米政府が亡命チベット人約四百人をコロラド州の米陸軍基地でゲリラ訓練しチベットに送りこんでいたことが1999年解禁されたアメリカ国防省の極秘文章により最近判明した。)この決起後、中華人民共和国は「民主改革」という名による虐殺・民族浄化・ジェノサイドをおこない、今日でもその惨劇は断続的に続けられている。
1914年からこの59年あたりまでにおいて、特に重要なことは、チベット使節団がチベットのパスポートで世界中を回り救援・支援を訴えつづけてきたことである。このパスポートがアメリカ、イギリスその他の国で法的に正式な書類として認められたことは、すなわちそれらの国々がチベットを一個の国家として認識していたことを示す確たる証拠であるといえるだろう。
以上述べてきたとうり、チベットは明らかに、独立した一個の国家であり、中国の行動はそのチベットへの武力による侵略であり、現在のチベットのおかれている状況はそのような中華人民共和国による不当な占領下にあると断言できるだろう。
2、中華人民共和国による残虐行為の違法性
中華人民共和国のチベット問題に対する主張について
中華人民共和国のチベット問題に対する主張は大別すると以下のとおりである。
(1)チベット侵攻について
a、チベット人を外国の帝国主義者より解放するための進軍
b、農奴制からの解放
c、国共内戦後の国民党敗残兵の掃討
a、 については前述のとおりである。また、付け加えるならば、当時、チベットに駐屯していた外国軍隊は、ネパールがパルポ商人事件以降、大使の保護のために派遣した軽武装兵25名のみであった。
b、については本来が遊牧民であるチベットに農奴制度などあろうはずもなく、また、ごく例外的に小作人制度があったことは見うけられるが、中国側の主張する農奴制度とは明らかに別個のものであった。今日のチベット研究の大勢もチベット社会は遊牧民、定住牧民、半農半牧民の三つに区分されるとする河口慧海師の見解がおおよそそのほとんどを占めており、チベット社会が基本的に農牧民であるとするカラスコ博士の見解は今日まったく支持を得ておらず、もちろん上記のような農奴制の存在はまったく否定される。
c、についてはそのようなことを目的とするならばチベットが独立国家である以上、正式な外交ルートを通じてにチベットに対しその旨を通告し、その上でチベット側と協議の上、同意された行動を行なうべきであろう。事実、毛沢東率いる八路軍(後の人民解放軍)はその「長征」の途上、チベットを「外国」として扱っている。
(2)チベットの中国との関係について
基本的にシムラ協定以前の中華民国・国民党政府の主張を踏襲し、それに輪をかけた理解しがたい論調を述べている。
1951年5月26日「チベットは1794年以来中国の一部である」と発表し、その根拠として以下のことを上げた。
a、チンギス汗のチベット征服を持って中国に権利が生じた
b、清皇帝がダライラマ5世に称号を送っている
これに関してはシムラ会議におけるチベット側主張によって以下のように論破されている。
a、 についてはチンギス汗はモンゴル人であり、汗のチベット征服当時はモンゴルと中国とは別個の独立国であった。それだけでなく汗はチベットを実際に統治したことは一度もなかった。さらに、元はチベット仏教を国教化しようとした事もあり、いわば檀家であったわけである。
b、 については確かにその事実はあるがその時同時に、ダライ・ラマは逆に清皇帝に皇帝の称号を授けている。また、清は満州人の国家であり、ウルガ条約にもその点が指摘されている。
さらに歴史的証拠を付け加えるならば、
・チベットはひと月に7日が2回ある「トルキスタン暦」を使っている。古来から、中国はその征服地、属国に対してその支那太陰暦を使うことを勧めまたは強要したが、チベットは上記のごとく「トルキスタン暦」を使っている。
・チベットは古来から支那皇帝のことを「コマ・リンボチェ(上宝)」と呼称してきた。チベットではサッキャア大寺以上の主僧の事を「コマ・リンボチェ」と呼ぶのであり、各派の長たるものにこの尊称をつけるので、その実「大事なもの」「偉い人」程度の意味合いでしかない。「コマ・リンボチェ」の上には「パンチェン・リンボチェ(阿弥陀如来の化身)」や「ロボン・リンボチェ」といった役職・呼称があり、決して、支那皇帝を上に戴いてはいないのである。
また、元・清ともに、チベットとは施主とラマの関係であり、宗主と従属国といった関係とはまったく異質のものである。しいて言えば、ローマ法王と欧州諸侯の関係に類似しているというべきである。
以上のように、中華人民共和国の主張にはなんら正当性は見出されない。それにもかかわらず、中華人民共和国はチベットにおいて、いまだに残虐行為を継続して行なっている。以下にそれらを年代順に概観するとともに、それらに国際法的な考察を加えた上で中華人民共和国の非人道的な行為への対応を検討する。
ア、中華人民共和国政府のチベット侵攻まで(~1950年10月7日まで)
人民解放軍の本格的なチベット侵攻である1950年10月以前に、1950年の早い時期からチベットの辺境地区にあたるにあたる、カンゼ、カムド、チャムドに侵攻している。
これは、第二次大戦後に確立された強行法規の一つ「武力行使の禁止」に反する行為そのものであり、また、国連憲章下で禁止された「武力の行使」に他ならない。憲章第2条4項は法的意味での戦争を構成するか否かに関わりなく、あらゆる武力行使を禁止したものであると解すのが適当であり、中華人民共和国のこの行動は非難されるべき武力行使そのものである。
イ、 中華人民共和国政府のチベット侵攻から「チベット平和解放に関する協約(いわゆる十七条協約)」締結まで(1950年10月7日~1951年5月23日まで)
10月7日以降の人民解放軍による本格的なチベット侵攻は、上記の問題のみならず、民間人の殺傷、傷病兵の殺傷、捕虜の虐待、重大な人権の侵害へと発展していく。
宣戦布告なき点、実際には戦争と変わらぬ数万規模の兵力による大規模な武力行使という点で、中華人民共和国のこれは明らかに「事実上の戦争」それも、国連の「侵略の定義に関する決議・決議3314」に合致する中華人民共和国によるチベットへの「事実上の侵略戦争」であると解すべきである。よって、以下のように戦争法、国際人道法の適用について考察することは可能であろう。
民間人の殺傷、傷病兵の殺傷、捕虜の虐待は改めて述べるまでもなく国際人道法違反である。一般に条約の国家承継に関してはいくつもの条約類型の内、多数国条約に関してはは原則として承継される、といったおおよその慣行が存在している。このことによれば、中華人民共和国の行なったその種の行為は中華民国の批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」ならびにその付属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」に明らかに違反するものである。その違反は、同規則の、捕虜に対する取り扱い、外敵手段を制限、攻囲及び砲撃を規制した第4条から第28条、占領地域における軍の権力を規定した第42条から第53条、第55条ならびに第56条のひろきに渡る。しかしながら、革命・内戦後の中国の条約関係については、50年以上たつ現在においてなお先行国と承継国の両者の存在から不確定な要素を持つものがあることは、いまだ論議の分かれるところにあるということも留意せざるおえないのも事実である。
しかし、それらの行為が中華人民共和国の批准する「戦地にある軍隊の傷者および病者の状態の改善に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」「捕虜の待遇に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」「戦時における文民の保護に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」に明らかに違反するものであろうことは紛れもない事実である。
そしてまた、人民解放軍の行なった行為は戦時犯罪の中でも「重大な違反行為(grave breaches)」に含まれるものである。
ウ、「チベット平和解放に関する協約(いわゆる十七条協約)」締結からラサ決起まで(1951年5月23日~1959年3月まで)
いわゆる十七条協約(前に述べたとおりその効力自体、無効である)の調印の際に行なわれた中華人民共和国によりチベット代表団になされた行為は、当時すでに国際慣習として確立していた、外交官、国家代表への不可侵、便宜供与、保護その他の処置を失するばかりか、軟禁・脅迫にいたっては、外交官・国家代表に関する国際慣習のみならず、一個人に対する人権の観点からも忌むべきものであることは明らかであった。
いわゆる十七条協約の調印後の人民解放軍進駐後に起きた略奪、強制労働、婦女子に対する暴行等は前述の諸条約を詳解するまでもなく、違法な行為である。
1956年4月26日には毛沢東は「数年後には、チベットの人口は230万から1000万となるだろう。大量虐殺(ジェノサイド)か、チベット文化の抹殺か、それとも中華人民共和国の人民による大量入植がチベット占有を可能にするだろう」と発言している。彼の発言はまさに、ジェノサイド宣言そのものに他ならない。数年後はそのまま、この事態が実現される。しかもそれは、はるかに規模が大きく、より残虐な手段によってである。
エ、「ラサ決起」以降(1959年3月以降)
(1)ラサ決起
3月20日「血塗られた金曜日」という人民解放軍による総攻撃が行なわれた。この際、人民解放軍によって殺されたのは戦闘員のみならず、数万の民衆であった。
今日、民族自決権に基づく解放闘争が一定の手続の下にではあるが「国際武力紛争」のカテゴリーの中に入ることは中華人民共和国も批准している「一九四九年八月十二日のジュネーブ諸条約に追加される国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書(追加議定書Ⅰ)」の1条4項に明記されている(その手続については96条)。よって、人民解放軍による侵攻・占領後、チベット正規軍の組織的抵抗が困難になり、違法な占領に反対する解放闘争へと移行した後の結果であるラサ決起も、「戦地にある軍隊の傷者および病者の状態の改善に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」「捕虜の待遇に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」「戦時における文民の保護に関する一九四九年八月十二日のジュネーブ条約」の適用の範囲内であると解される。
また、このラサ決起が「国際武力紛争」とされなくても、人民解放軍の行為が「一九四九年八月十二日のジュネーブ諸条約に追加される非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書(追加議定書Ⅱ)」における、人道的待遇、傷者・病者の保護を定めた第4条から第10条、文民たる住民の保護、文化財礼拝所のの保護、を定めた第13条から第17条に明らかに違反するものであったことは確かである。
(2)難民
ラサ決起後、大量の難民が発生した。人民解放軍はこの難民に対して無差別の砲撃を加えたのみならず、婦女子に対し多数の暴行が加えられた。これは、中華人民共和国も批准する「難民の地位に関する条約」と、その「難民」の定義を拡大し、難民条約の適応を可能にした、「難民の地位に関する議定書」違反するものである。
(3)大量虐殺(ジェノサイド)
ラサ決起以降、中華人民共和国は「民主改革」の名の下に、数々の大量虐殺をおこなった。
それらが、「人道に対する罪」の一つである「ジェノサイド」であり、中華人民共和国も批准する「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」に違反することは明らかである。
(4)人権侵害・その他犯罪行為
この件に関しては「Free Tibet」のホームページに詳しい。
a、人民裁判(タムジン)
中華人民共和国は人民裁判制度をチベット政策に利用した。人々は特別人民集会に呼び出され前もって中国側が作成した資料に基づいて被疑者、被告人、容疑者ではなく、当初から「犯罪者」として告発された。これは、罪刑法定主義、事後立法の禁止といった、法治上当然の原則を無視するものであり、その裁判は苛烈を極めた。その裁判の参加者、数十人から数百人は、その告発を受けた者に対し虐待の限りを尽くすように強制されたという。皆がその告発を受けた者を蹴りつける様から「カンガルー裁判」とも呼ばれたという。
b、虐殺
中華人民共和国は非常に残虐な方法をもって、刑罰という名の虐殺を行なった。公開処刑、絞首刑、銃殺はまだ幸運なものであったという。はりつけ、生きながら焼かれる、生き埋め、餓死、といったもの。さらには、父は子を、子は母をと家族の者同士によって殺されるよう強制された。生きながらに解剖されるといったこともされたという。女性は処刑前に老いも若きもことごとく強姦された。年端の行かない少年僧、少女尼僧にもそれは行なわれた。
c、 拷問
拷問による死者は多数に上る。その方法は、苛烈を極め、爪の間に竹串を刺すと言ったものから、指を一本づつ切断する、電気ショック、身体中に長いくぎを打ちこまれる、ガソリンをかけられ火をつけられる、零下の中裸で放置されるといったものまであるという。さらに女性は強姦される。
d、リンチ
公衆の前で糞尿を食べることを強制されたり、僧院では弟子に師匠を殺すことを強制したりした。
e、略奪・破壊
数多くの寺院が破壊され仏像・仏具・貴金属・宝石その他文化的価値が高いものまでありとあらゆるものが略奪され破壊された。
f、教育
今日、チベットの学校ではチベット語はほとんど教えられていないという。また、1985年から1万8千人の子供が「中国本土で教育を受けさせる」という名目で中国本土の民族学院へつれて行かれ、一万人以上が帰ってこなかったという。
g、強制結婚
1975年以降中国人入植者の男性に対してチベット女性の結婚が強制されており、この逆は禁止されている。
(5)核廃棄
驚くべきことに、中華人民共和国はチベットに放射性核廃棄物を野ざらしで投棄しているというチベット亡命政府高官の証言があり、実際、亡命者の中には原因不明のガン、白血病患者がいるという。もしこれが事実ならば、IAEAの「重大関心事項」に該当する事柄として監査されるべき事柄である。
これらの国際法上許されまじき行為は行為は、いまなおチベットでは行われている。1989年天安門事件の数ヶ月前、チベットでは天安門事件を上回る死傷者数千人規模の弾圧がくわえられたという。
3、 チベットに対する国際社会の対応
今日、中華人民共和国による徹底的な占領政策により、チベットの独力による独立の回復は非常に難しい状況となりつつある。
唯一チベットに残された現実的な道としては国際世論の高まりを喚起し、中華人民共和国に対する国際社会からの圧力を求めることであろう。
しかしながら、1998年の『セブン・イヤーズ・イン・チベット』などハリウッド映画
の影響で一時的に盛りあがったかに見えた国際世論も最近ではすでに下火になってきている。このようなことは、人民解放軍のチベット侵攻以降何度も繰り返されてきたことである。1989年のダライ・ラマのノーベル平和賞受賞、 1993 年のダライ・ラマ、国連世界人権会議で演説。その度に、一定の高まりを見せる国際世論も、いつしか下火となってしまうのである。
中華人民共和国のチベットに対する侵略行為は明らかに違法であり、中華人民共和国のチベットに対する虐殺・人権侵害事件は、カンボジアのポル・ポトによる大量虐殺、フツ族ツチ族の相互虐殺、ユーゴのセルビア人勢力の民族浄化作戦、コソボにおける虐殺等の、戦後の残虐な虐殺・人権侵害事件をも上まわる規模のものであることは間違いないものである。そしてそれらは、「人類の平和と安全に対する罪」に他ならないのである。
なにゆえに、チベットはこのような悲惨な境遇にありながら国際社会から放置されつづけてきたのか。なにゆえに、中華人民共和国の明らかに違法な行為は野放しにされつづけてきたのか。ここに、今日の国際社会、国際法、国際連合の「平和・安全保障」に対する、限界と問題点があるのではないだろうか。
チベット財務長官のW・D・シャカッパ氏は初期のチベット危機(人民解放軍のチベット侵攻からいわゆる十七条協約調印まで)主な原因を、以下のように述べている。
(1) 独立国チベットの歴史的事実を世界が知らなかった
(2) ラマと施主、寺と檀家の関係の真の本質を世界が明確に知らなかった
(3) シムラ協定まで、英国領インド政府と清国がチベットと他界から孤立させるような政策を行なってきた
(4) 第2次大戦後、独立を勝ち取ったインドは、パキスタンの分離独立、印パ戦争という問題を抱えたインドは、それ以上の懸案となる中国との摩擦をさけるため、当時、唯一その問題に対する実効的な解決の手段を持ち得たにもかかわらず、中国におもねり、強硬な態度を取れなかった
まさに悲劇である。チベットはこの後、冷戦の激化の中、徐々に国際社会の感心の外へと押し出されて行く。しかし、チベットの真の悲劇は、まさに、その後60年代から80年代にかけて激化して行く。
中華人民共和国へのチベット問題に関する指摘はこれまでの上記のことがらにとどまらず、国際社会による告発の余地は十分にある。たとえば、人民解放軍の行なった行為は戦時犯罪の中でも「重大な違反行為(grave breaches)」に含まれるものである。これらの「重大な違反行為」に対しては、紛争当事国だけでなく、すべての締約国に捜査と公訴提起の義務が課せられ、いわゆる「普遍的裁判管轄権」が認められている。1968年11月国連総会は「戦争犯罪および人道に対する罪への時効不適用条約」を採択し、1970年発効した。この条約は、戦争犯罪と人道に対する罪に時効を適用しないこと、及びこのような犯罪を行なった者の引渡しを定める国内的措置をとることを締約国に義務づけている。この条約への中華人民共和国の批准をすすめれば、チベット問題の関係者の責任を追及することもできる。長年の懸案事項である国際人権規約の早期批准も求めるべきだろう。
しかしながら、今日の国際社会の潮流ではそれらの実現ははなはだ疑問である。国際社会は本当のところ、人類の平和、弱者の人権尊重を第一義とするまでにはなっていないようである。昨年、人権のためには内政干渉も辞さない米国は対中圧力を緩和し、国連人権委員会での中国非難決議の提案からも降りた。クリントン政権の対中友好政策、米国内の中国人組織の圧力の結果である。結局それは、中国国内において人権侵害に苦しむ人々の問題ではなく、米国の国益の問題であったのである。天安門事件以来、アメリカは中国に対して人権問題を外交カードとして利用しつづけている。人権問題を利用し、自らは痛むことなく相手から譲歩を引き出そうというアメリカの外交戦略は、国際社会という大きな流れのなかで、置き去りにされたチベットへの本質的な救済にはなり得ないだろう。
しかし、ここで米国を非難するのは必ずしも適当ではない。なぜならば、チベット問題は各国にとって、国益とはなりがたい問題であり、今日、中国を敵に回すことによる国益の損害は大きいという事実がある。そして、少なくとも、いまだ国際社会というもの価値観は国益よりも人類の平和、弱者の人権尊重を第一義とするまでにはいたっていないのであることもまた事実だからである。
これは、国際社会の縮図、国際連合の中でより鮮明になる。チベットを議題とすることは幾度となく国連の場において提起されてきているが、それらはことごとく、中華人民共和国の拒否権の前に潰えている。チベット問題に対してもっとも明確な国連決議となったものは、1959年のマレーシアとアイルランドが動議提出をした第14回国連総会であろう。
この動議は共産諸国の猛反対の中、結局、中華人民共和国にも、彼らのチベット侵攻と占領にもまったく言及することなく以下のようなものとなった
チベット民族独自の文化的、宗教的遺産及び、彼らが伝統的に享受してきた自治に十分留意した上で、
総会は(1)国連憲章と世界人権宣言の原則の尊重こそが、法の支配に基づく平和な世界発展の真髄であるという信念を確立するとともに
(2)チベット民族の基本的人権及びその独自の文化的、宗教的生活の尊重を要求する。
もちろん、中華人民共和国のチベット統治において、この決議が尊守された気配は見あたらない。
国際連合の限界であろう。決議にはなんら強制力はない。大国、常任理事国、そして拒否権の前にはあまりに無力である。チェチェンのあるラジオ局は叫んだという「コソボは救われ、なぜチェチェンは救われないのか」と。チベットの叫びも同じであろう。国際連合は今日、実質的に大国の暴走を止める手立てを持ち合わせていないのである。
国際法の限界はさらに悲壮である。「世界人権宣言に反する。」この一つとってみても、いかに中華人民共和国のチベットに対する仕打ちが非難されるべきものであるだろうか。第二次大戦後確立されたとされる、戦争の違法化。確かに違法とされたはずの戦争。しかし、この現実はいったい、いかなるものなのだろうか。
チベットで起きたことは、どの点を取ってみても国際法に違反する違法行為である。しかし、その違法行為はいまだ続き、チベットの民衆は苦しみつづけている。国際法によって禁止され、違法とされるということと、チベットの民衆が苦しみより開放されるということの間にはあまりに大きな隔たりが存在するのである。その結果が、さらに、亡命へ、絶望的な反抗へとつながり、さらなる弾圧がその結果としておとずれる。その結果の中華人民共和国による弾圧を、国際法違反と指摘すること、国際法的解釈によって非難することはできる。しかし、それまでなのである。それ以上は残念ながらいまの国際法の限界にといわざるえないであろう。
4、チベットのために
平和、自由、人権が標榜される国際社会の中で、チベットの悲劇は存在している。チベットは人民解放軍のチベット侵攻直後、国連にこう訴えた。「…チベット人民が自らの意思と希望に反し、無理やり中国の一部に組み込まれるという事態がこのまま進行するならば、この侵略行為は(国際社会における)強者による弱者征服の最悪の実例になるであろう。…」と。私はこのチベットの問題を単にチベットと中華人民共和国の二ヶ国間の問題としてのみとらえるのではなく、一つは国際社会のチベットに対する責任という点を指摘したい。エヴァン・ルアードは「戦争は、それが生起する国際社会によって決定されるという意味で社会を期限する」と述べている。その戦争を容認するも、否認するも国際社会に委ねられているとするものである。その意味において、私はチベット問題の拡大の責任の一端を国際社会に求めることをここであえて提起したいのである。
1948年以降、世界人権宣言は人類の人権擁護の普遍性を謳い上げた人権尊重主義の指針であり、国家権力によって人権侵害を不当に受けてきた人々のより所でもあった。チベットもその例外ではない。しかし、人権侵害を受けている人々が国家に向かい戦いを挑むことは容易なことではなかった。そこで第三国が他国の人権侵害国の政府に対して、外交手段として人権改善を求めることが、人権擁護の一つの有効な戦術、戦略として認識され確立されてきたものが「人権外交」であった。ただし、この人権外交にも問題点はあった。アメリカのそれに代表されるように、この人権外交の実現には軍事力・経済力を背景とした、脅し・強制力やその行使が、不可分であったということである。また、小国からの大国への人権外交、一国から複数国への人権外交といったものは実質的に困難であり、その実効性は極めて乏しいものとならざる得ない。そしてもちろん、この人権外交は結局のところ「外交」の域を出なかった。それが外交である以上、自国の国益を損ねるものであってはならないというものなのであった。
結局のところ、大国であり常任理事国、そして、異を唱えることにより国益を損なう可能性、それらをあわせ持つ中華人民共和国という国に、国際社会はいかなる対処が可能なのか。私はここに、国際社会の潮流の大きな変化を望むものである。それはおそらく、既成の国家観の変革をも迫るものになるだろう。そのヒントはダライ・ラマ十四世の1959年9月5日のデリー演説の中にあるのではないだろうか。「…真実と人類愛が最終的には勝利をおさめるに違いないというのが私たちの信念であり、希望である。」そして、ダライ・ラマ十四世は中華人民共和国に対する武力による独立運動をも戒めている。それは、新たな憎しみを生む。むしろ彼らを愛せ。と。
真実と人類愛。本来、この概念は究極的には各国の国益に反しないばかりか、むしろ今後のグローバル化がすすむ国際社会の新たなる指針になりうる可能性を重分に秘めたものであるとわたしは考える。その結果あるものは、より大きな益、国益を超えた「人類益」であろう。国益の追求から「人類益」の追及へ、新たなる国際社会の潮流はそういった方向に行くべきなのではだろうか。
今はまだ、あまりにも理想論にさえ思えるダライ・ラマ十四世の言ではある。しかし、国際社会が彼の言に耳を傾け、その既存の価値観をほんの少し変えることができたのならば、いつかのチベット代表による国連演説はこのように言いかえられることになるだろう
「…チベット人民が自らの意思と希望により、真実と人類愛によって平和裏に中国からの独立を勝ち取ることができたのならば、この独立は、(国際社会における)真実と人類愛による、圧政と人権侵害・不当な侵略行為との戦い、における勝利の最初の実例になるであろう。チャンチャン・ペンマ…」と。
以上
主要参考文献
・チベット政治史 W・D・シャカッパ 亜細亜大学アジア研究所
・チベット上・下 山口瑞鳳 東京大学出版
・チベット入門 ペマ・ギャルポ 日中出版
・国際法講義上・下 田端茂二朗 東信堂
・現代国際法入門 エイクハースト・マランチュウク
成文堂
・戦争・その展開と抑制 加藤朗・ほか 剄草書房
・戦争と平和の法 小室直樹・ほか 総合法令
・戦争と国際法(改訂版) 城戸雅彦 嵯峨野書院
・基本論点国際法(改訂版) 植木俊哉 法学書院
・チベット旅行記〔一〕~〔五〕河口慧海 講談社
・第二回チベット旅行記 河口慧海 講談社
・ 水野光朗、「Discussion Paper No.5チベットの法的地位とシムラ会議(1913年-1914年)」
文部省科学研究費・特定領域研究(A)「南アジアの構造変動とネットワーク」
東京大学東洋文化研究所
・ 申 恵毛、「人権分野における国連の組織と活動」
国際問題No 474 (財)日本国際問題研究所
・ 東郷育子、「国際関係と人権外交」
国際問題No 475 (財)日本国際問題研究所
・ 竹内正右、「中国「チベット漢民族化政策」の暴挙」
SAPIO Vol.11 No.16 小学館
・ ペマ・ギャルポ、「チベット侵攻で血塗られた「人民裁判」「拷問」の犠牲者たち」
SAPIO Vol.11 No.19 小学館
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