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出羽守の独り言

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日本では明治以来、洋行帰りが何かにつけ、「向こうでは・・」と一席ぶつ癖がありました。「アメリカでは・・」、「イギリスでは・・」などがそれですが、こうしてぶつのが好きな人達は、「出羽守」と呼ばれてきました。

 戦後マッカーサー元帥が日本人を12歳の子供になぞらえたことが、彼等の習癖に一層拍車をかけたのかも知れません。当時、世界で最も富める国アメリカは、私たち日本人に、日本の政治・経済・文化あるいは社会制度を相対比する物差しを提供してくれました。しかし、敗戦による自信喪失が著しかった日本人が自信を取り戻し始めた昭和30年ごろから、「出羽守」の言うことに対して、“そんなものは参考にならん”と憮然として見せるほうが、人々に受けるようになってきました。これを「豊前守」と呼ぶのだそうです。つまり、アメリカと言うお手本によって日本を相対比する代わりに、日本によってアメリカを相対比しようとする傾向が出てきたわけです。

 筆者は、在米30有余年、実業界を経て日・米の大学で教鞭を執り、また個人的には、「帰国子女」ならぬ“日本に帰国しなかった吾が子”(今は、成人してアメリカで弁護士をしています)の日本語教育にも苦労しました。こうした経験をもとに、あえて「出羽守」の立場をとりつつも、公平な目で日米の文化比較を試みてみたいと思います。そんな訳で、本欄のタイトルを「出羽守の独り言」としましたが、読者の中から一人でも多くの「豊前守」が現れ、「出羽守」に対し憮然と反論して下さることを願っております。筆者と読者の対話を通じ、やがて“アメリカが見え、日本が見えてくる”ことを期待するものであります。

鈴木康彦(すずき・やすひこ)=国際法学者

TODAY1 ∞ へーそうなんだ、ぜんぜん知らなかったが、出羽守に対して豊前守ねえ

毛利勝永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛利 勝永(もうり かつなが、天正5年(1577年) - 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、豊臣氏の家臣。豊前守。名は吉政(よしまさ)とも。毛利勝信の子。子に毛利勝家毛利太郎兵衛がいる。

[編集] 生涯

天正5年(1577年)、毛利勝信の子として誕生する。父の勝信と共に豊臣秀吉の家臣として仕えた。天正15年(1587年)、父勝信は豊前国小倉6万石(一説に10万石)、勝永にも豊前国内に1万石(4万石とも)を与えられ、この際、秀吉の計らいによって森姓を、中国地方の太守毛利氏の姓に改めている。

慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍。慶長の役では、蔚山倭城に攻寄せた明・朝鮮連合軍撃退に戦功を立てた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦。伏見城攻めで格別な戦功をあげ、毛利輝元宇喜多秀家より感状と加増を受ける。しかし本戦では、毛利秀元隊の与力として布陣していたため、戦闘に参加できずに撤退。戦後は改易となり、父と共にその身柄を加藤清正、次いで山内一豊に預けられる。旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子とも手厚く遇されたという。

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐から脱走して大坂城に入城。諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称される。大坂冬の陣では、真田信繁らと共に出撃策を唱えたが容れられず、籠城戦では西丸ノ西・今橋を守備した。大坂夏の陣では、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を収容。自ら殿軍を務め、真田らの軍勢を順次退却させると、鉄砲隊を備えに残して機を見て無事撤退させた。

翌日の天王寺口の戦いでは、兵四千を率いて天王寺南門に布陣。戦闘が始まるや本多忠朝小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重秋田実季榊原康勝仙石忠政諏訪忠恒酒井家次本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せる。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝細川忠興らの攻撃を防いで城内への撤収を完了する。

最期は豊臣秀頼の介錯を行い、息子である毛利勝家とともに静かに自害したという。太郎兵衛は、その後幕府によって処刑された。

[編集] 逸話

  • 大坂の戦いが近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。のちにこれを聞いた家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたという。
  • 道明寺の戦いでは濃霧のため、真田信繁、毛利勝永らの後詰が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討死した。遅れて合流した真田信繁は勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰め、退却の指揮をとったという。
  • 毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ねた。嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でざる」と答えた。それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに・・・さても歴戦の武将のようだ」と驚き、賞賛したという。
  • 当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は『豊臣軍には真田信繁と毛利勝永という指揮官がおり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした』と以上のように報告したという。
  • 江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわとこう)は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。

[編集] 人物

大坂の陣では、とかく真田信繁真田幸村)の活躍が有名であるが、毛利勝永の奮闘はそれに勝るとも劣らないと言える。特に攻守両面に渡って類稀な活躍を示しており、大坂方にあって最後まで戦線を維持したのは勝永唯一人であった事からも、その手腕の程は窺えるだろう。人口に膾炙していないため、他者の活躍に隠れてしまいがちだが、当時においては大坂城中で1,2を争う名望を勝ち得ていたという。妻子や僚将に対する逸話から類推しても、その人柄は温順寛厚で、人当たりの良い人物であったようである。

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