凶悪犯罪多発の3つの背景 作田明
【正論】犯罪心理学者、聖学院大学客員教授 作田明
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080604/crm0806040235006-n1.htm
凶悪犯罪多発の3つの背景
≪優秀だが挫折も経験≫
JR常磐線荒川沖駅で、8人が通り魔に刺され、1人が死亡、7人が重軽傷を負うという悲惨な事件が起き、それにひき続いて18歳の少年による駅ホームからの突き落とし殺人事件、都内マンションでの女性バラバラ殺人事件など、凶悪な事件が相次いで発生した。
その特徴は加害者と被害者との間に全く関係がなく、金銭、怨恨など通常心理学上合理的な動機がほとんど存在しないことであった。
近年欧米、特に米国を中心に無差別的殺人が増加する中で、いわゆる無動機的犯罪についての心理的メカニズムの探究が進んできている。洋の東西を問わず、いわゆる無動機的犯罪にはいくつかの共通点がある。
犯人はほとんどが男性の単独犯である。若い人が多く、単身者であるか、家族と同居していてもあまり接触せずに孤立した生活を送っている人々が大多数である。
米国では、犯罪一般については黒人など有色人種の比率が高いが、こうした凶悪犯罪についてはむしろ白人の発生頻度が高くなっている。家庭環境については中流家庭出身者が多く、もともと貧困家庭に育った者は少ないと言ってよい。
犯行者には無職の者が多いが、小、中学校の成績は必ずしも悪くないし、中には非常に優秀であった者も少なくない。高等教育を受けるようになるまでに挫折した体験の持ち主が多く、そのために不本意な就職をしたり、あるいはほとんど定職につけなかった者が少なくない。
≪小さなストレスに弱い≫
こうしたプロフィルはそのまま彼らの問題点を浮き彫りにすることになるだろう。
彼らの多くは比較的ふつう以上の知的資質を持って生まれ育っており、経済的にも困窮しているわけではなく、長男であるケースも多いから幼い頃から両親の期待を担って成長していることが多い。
ところが、おそらくは思春期以降に家庭内、あるいは学校などにおいて様々なトラブルを抱えて悩むようになる。彼らは幼少期に両親から甘やかされて育った結果、脆弱(ぜいじゃく)な性格であることが多く、比較的小さなストレスでもそれを克服することが難しく、挫折しやすいのである。
また、過去の成功体験から失敗・挫折によるトラウマはふつう以上に大きく、このために他者とのコミュニケーションを避けようとする。この中で本人の焦燥感は強まり、やがてはそうした自分のみじめな状態が他者によるものであると考えるようになる。こうした他罰的感情の高まりが、やがては社会や自分以外の人間に対する攻撃へと発展することになるわけである。
中には自暴自棄となって、真剣に自殺を考えるようになる者もあらわれる。彼らの中に時々「死刑になりたかったので人を殺した」という者がみられるが、これは犯罪学的には間接自殺といわれる心理であり、珍しいものではない。連続殺人者たちが自殺を選ばず、他殺を選ぶのは彼らの反社会的なパーソナリティーのゆえである。
もともと甘やかされ苦労を知らずに育てられた彼らは自己中心的であり、社会的孤立から情緒的交流への志向を失い、更には自らの境遇が不当に悲惨なものだと思い込むことにより人類に対する憎しみが強まっていくのである。
≪再チャレンジできず≫
こうした犯罪が、比較的近親者への比率が高いといわれる日本の殺人事件の中で近年目立ってきているのには様々な背景が考えられるだろう。
一つは家族構造の変化である。核家族化、少子化は今にはじまったことではないが、その状態が戦後60年以上を経て数世代に及んで固定化しつつあり、こうした中で家庭が崩壊状態になると子供たちはいきなり社会に投げ出され、大きなストレスを受けることになる。日本では親族や地域社会などのサポートが弱いことも事態を必要以上に深刻化しやすいといえるだろう。
もう一つは日本ではいったん失敗、挫折した人々が再チャレンジする機会が少なく、若くして絶望する人々をみすみす放置している傾向があるということである。
第三に、これが実は最も重要な要素であろうが、現代の学校や家庭の状況がひ弱で対人能力を欠如した若者たちをふやしているということである。豊かな情操や対人関係能力を養うのではなく記憶力や従順さを追求する風潮は個人の洞察力や判断力を失わせることとなり、非行や犯罪への抑制力も減退させることになるだろう。
殺人を含む刑法犯自体は減少しつつあり、諸外国に比べて凶悪犯罪の現状は決して深刻な状況ではないが、実際にはとりくんでいくべきことは多いのである。
(さくた あきら)
↑ 2008年6月4日(水)、今回の事件が起きる前の正論
TODAY1 ∞ 今朝の産経コラム「断」で、宮崎哲弥氏が「予言されていたプロファイル」として取り上げていたが、改めて読むと、かなりまとまっている。
今回の事件に関しては、朝のテレビでニュースを見るだけで、新聞記事などは、ほとんど読まない。
別に理由はないが、やった本人しか分からない動機、心、感情などを、評論家と称する人たちが、やっと俺の出番が来たとばかり、喋るの図がいやなだけ。
それでも、目に付くコメントを読めば、おおよそ、境界例・AC関係の本を読まれている方にとっては、このコメントはあの本から引用だな・・・みたいな部分が多い。
ちょうど、加藤諦三の古本を読み返していた時期でもあり、加藤氏のコメントを聞いてみたいもの。
自己消滅型の人間・・とかこれからのキーワードになるかも知れない。
ちなみに私は、できればこの世の中の居候として生きられれば生きたいと思っている。
自分を見つめる心理学(P-77)に「世の中の居候」という件があって、「あっ俺だ」と独りニヤニヤした言葉だ。
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