« 味が自慢 千葉県市原市の梨 (幸水・豊水) | トップページ | 灌仏会(かんぶつえ) 花祭り »

大奥の将軍さま

大奥のお殿様は、のべつまくなしに何発もやれるんだ・・羨ましい身分だな・・・と小学校の頃から思っていた。

コネタマ参加中: 歴史上の人物、誰が好き?

以上

WIKIより引用

初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは、元和4年(1618年)年、2代将軍・徳川秀忠の時代、「大奥法度」を制定した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。3代将軍徳川家光乳母春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。

慶応4年(1868年)4月、江戸城の明け渡しが決定された時に、大奥は終焉を迎える。開城に伴い、同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室・静観院宮と同生母・実成院清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室・天璋院と同生母本寿院一橋邸へ引き移った。4月11日、海江田信義木梨精一郎水野彦三郎渡辺清の4人が新政府代表として大手門より入城し、江戸城の引渡しを終了させた。

 

|

« 味が自慢 千葉県市原市の梨 (幸水・豊水) | トップページ | 灌仏会(かんぶつえ) 花祭り »

ウェブログ・ココログ関連」カテゴリの記事