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政治の文化大革命

文化大革命
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文化大革命(ぶんかだいかくめい、無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう)は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた、封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動。実態は毛沢東らが引き起こした権力闘争である。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以降、共産党指導部内での共産主義が修正主義へと後退したと危機感を深めた毛沢東が、国家の路線と権力を再び自らに取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争としてとらえられることが多い。略称は文革(ぶんかく)。

政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動のはずであったが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され、結果的に一時的な内戦へと発展、国内の主要な文化が破壊される惨事となった。

文化大革命のきっかけとなったのは毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目的として林彪に与えた指示であり、これに基づいて林彪が主導して開始されたとされている。その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、林彪による毛沢東暗殺未遂事件が発生(林彪事件)。林彪は国外逃亡を試みて事故死するが、彼の死後も「四人組」を中心として、毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指し、文化大革命が進められた。しかしながら、実質的には中国共産党指導部内の大規模な権力闘争であり、これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展していった。

文化大革命においては、まず共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。その後、弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。文化大革命が起こる要因ともなった大躍進政策もあわせると、行方不明者を含めた虐殺数は、推計で約3000万人-約7000万人[1][2]といわれ、これらの政策によって中国の経済発展は30年遅れたと言われている。なお現代中国政治を専門とする政治学者の中嶋嶺雄は中華人民共和国が建国後、起こした人民への弾圧・迫害・虐殺行為など犠牲者総数は2億人前後に及ぶと推計している[3]。

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