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民主政権と美濃部都政の類似点

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東京都知事 美濃部亮吉 (1667~1979年)

日本社会党を支持基盤とする革新都知事として知られ、1967年から1979年の12年間(3期)に渡り東京都知事を務めた。美濃部亮吉の政治的手腕は母方の祖父・菊池大麓から、リベラルな思想は父・美濃部達吉から受け継がれたといえる。1971年都知事選挙では361万5299票を獲得した。これは個人が獲得した得票数としては日本の選挙史上最多得票記録であり、現在も破られていない。

政策面で評価されている点としては、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出し、東都政の時代において取り残されていた課題へ対応した点が挙げられる。

批判されている点としては、これらの福祉・環境政策を充実させた裏側でそれらを実行する為の財政的な裏付けや計画性に乏しく、結局は東京都を当時前代未聞の財政難に転落させた事が挙げられ、後年「戦後都政の暗黒時代」と批判される事にもなった。この財政悪化の主要因の一つとしては、最大の支持基盤が社会党であったため、自身の集票の基盤となっていた都職員の労働組合教職員組合などとの関係から、交通局の職員(都電都営バスの運転手など)や都立高校の教職員などを含む都職員の人件費が聖域化してしまい、全く手を付ける事ができなくなり、年を追う毎に人件費が膨らんでいったことが指摘されている。この様な美濃部が残したツケは決して小さなものではなく、後任知事の鈴木俊一は、その第1期目において、都財政再建や歪んだ労使関係の適正化などを初めとする美濃部都政の後始末にその労力の少なからぬ割合を振り分けなければならない羽目になった。

また都庁内にあっても、美濃部のエリート意識や貴族趣味、時間や場所を問わず部下を叱責するにもかかわらず、都庁の外ではその姿を微塵も見せない美濃部の二面性を嫌悪した者は多く、かつて都知事選で美濃部に敗れた石原慎太郎も、自身の著書の中で美濃部を痛烈にこき下ろしている。

主な施策 [編集]

公営ギャンブル廃止 [編集]

公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出し、美濃部の都知事就任後に公約実行という形で、東京都はそれまで行っていた競輪競馬競艇オートレースの全ての事業から撤退している。

これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は閉鎖された。他方で、江戸川競艇場大井競馬場京王閣競輪場は東京都とは別に市町村や特別区が主催権を持っていたため閉鎖・廃止にならず、東京都が主催していた開催枠については各々主催権の移行が行われた。

道路開発 [編集]

東京外環自動車道首都高速中央環状線での道路開通について、道路工事反対の住民運動の側に立った政策を実施したことが結果として、東京の道路整備が大きく遅れ(外環や中央環状線の工事凍結等)、慢性渋滞とそれに伴う排気ガス公害を 招き、かつ地域エゴを増長させたとする意見がある。これに対し、地域住民の公害被害や当時の公害に対する防止設備が整っていないことを考えると、地域住民 の立場に立ったことで公害被害を守ったとして評価する意見もある。この政治スタンスは、「橋の哲学」と呼ばれる、トップダウンによって住民に対して政治を 行うのではなく、住民の一人ひとりからの説得によるボトムアップによる政治スタンスを取る美濃部の特徴であると言える。

都立高校の学校群制度を存続 [編集]

学校群制度に よる都立高校入試は東都知事時代に導入され、都立高校の東京大学など難関大学への進学実績低下の発端となった。1967年度入学者から1981年度入学者 まで、15回の入試が学校群制度によって実施され,美濃部都政下では1968年から1979年までの12回が実施された。

第1回入試時点で高学力層の入学辞退者増加などの問題点がすでに露呈しており、以降は都立高校全体としては難関大学進学実績の低下が続いた。美濃部 は3期12年間にわたって学校群制度を存続させ、顕在化していた問題点に対する改善策をまったく取らず、都立高校の難関大学進学実績を低下するに任せた。

北朝鮮との関係 [編集]

対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、北朝鮮に近い立場の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、朝鮮大学校を各種学校として認可している。美濃部は「都市外交の一環」を名目に1971年に、現職知事としては唯一の北朝鮮訪問を行い、その際に金日成と面会を果たしており、北朝鮮との間に太いパイプがあったことは事実であると言われている。その会談において、美濃部は、

「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」

と発言した。この発言だけを見ると、スタンスとしては北朝鮮を強く支持するものであると言える。もっとも、北朝鮮訪問を行った政治家は、本人の思 想・実際の評価の如何に関らず北朝鮮側の要望で金日成や北朝鮮の国家体制などを、高評価・礼賛する内容の発言を行うよう強いられるケースも少なくないとい う説がある。詳細は飛鳥田一雄#評価などを参照のこと。また、当時の北朝鮮は1990年代以降に露呈した経済・社会基盤の崩壊などがまだ表面化する以前であったというところを念頭におく必要がある。

主たる支持基盤が北朝鮮との繋がりが深い日本社会党であったため、前出の公営ギャンブル廃止論の背景には北朝鮮利権が色濃いパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する事が目的ではなかったかとの疑念を示す意見もある[要出典]。その他、都内でのパチンコ遊技場や飲食店の設置について、美濃部在職中においては北朝鮮資本が関係するものは比較的スムーズに営業開始に至ったものが多かったのに対し、一方で特に韓国系資本の関わるものについては各種許認可の遅延など様々な妨害が行われたとの声が、主として民団系の立場の者からは出されている。

ただし、民団系の在日韓国人に対して万事冷淡であったかというと必ずしもそうとは言い切れず、在日外国人に対する医療保険の適用を行うなどしており、そのことに対して辛淑玉は在日韓国人であるが、美濃部亮吉のおかげで命を永らえることができたと高く評価している。

日本共産党との関係 [編集]

革新知事の象徴としての側面が強いが、同じ革新系でも日本共産党との関係はお世辞にも良好とは言い難いものであった。

1975年の3選の際には、部落解放同盟を巡って支持基盤の日本社会党と、解放同盟と激しく対立する日本共産党の間で対立が起こるなどしていた。社共対立を理由に一時美濃部は不出馬を表明していたが、「石原慎太郎の出馬によるファシズムの復活を阻止する」(本人談)という理由付けで3選出馬に踏み切ったことに対する反発が大きかった(一説には、美濃部自身は最初から3選を考えていたが、社共対立に頭を痛めていたため、社共の自身への支持を確実なものにするために石原をダシにしたとの指摘がある[要出典])。

社会党系列の知事であったために、当時の東京都議会において共産党は与党でありながら知事の出した議案に反対することが多く、共産党参議院議員有働正治などは「革新知事と呼ぶに値しない」と批判をした。そのため議会対策も兼ねて任期途中で公明党との間で政策協定を結ぶなど、共産党への牽制も少なからず行っている。

参議院議員への転出 [編集]

知事退任後は社会党東京都連などの推薦を受けて無所属で参議院議員に転出。革新自由連合所属の中山千夏の率いる「一の会」に所属し、後に第二院クラブらの議員との統一会派「無党派クラブ」「参議院の会」代表を務めるも、病もあり目立った活動がないまま、任期途中の1984年12月、自宅の書斎で死去した。

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