« 吉野家のバルチックカレー | トップページ | 涅槃(ねはん)で待つ »

安寿と厨子王

安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。

ブログネタ: あなたに“きょうだい”はいる?参加数

山椒大夫

正道はなぜか知らず、この女に心が牽(ひ)かれて、立ち止まってのぞいた。
女の乱れた髪は塵(ちり)に塗(まみ)れている。
顔を見れば盲(めしい)である。
正道はひどく哀れに思った。
そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。
それと同時に正道は瘧病(おこりやみ)のように身うちが震(ふる)って、目には涙が湧いて来た。

女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。

安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。

 正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚(ほ)れた。
そのうち臓腑(ぞうふ)が煮え返るようになって、獣(けもの)めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。
たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。
そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏(うつふ)した。

右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
 女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。
そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。
そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤(うるお)いが出た。
女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。

二人はぴったり抱き合った。
大正四年一月

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_23257.html



底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1998年7月21日公開
2006年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

*

*

TODAY1 ∞ 何度読み返しても泣く部分である。 

|

« 吉野家のバルチックカレー | トップページ | 涅槃(ねはん)で待つ »