太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう
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【日本よ】
石原慎太郎 文学と世相
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091207/acd0912070252003-n1.htm
時代々々で人々の嗜好(しこう)も変わり、人間の感性も時代の文明に規制されて変容しよう。それを占う媒体もいろいろあるが、歌曲といった端的な表現より も、小説という情念の複合的な所産の方が時代の深淵を覗(のぞ)かせてくれるような気がする。最近小林多喜二の『蟹工船』が若い世代の中でブームとなり識 者を驚かせた。並行して太宰治の小説もそれらの世代に強い共感で読まれ幾つもの作品が映画化されている。
こうした現象は私の知己の精神病理学者斎藤環氏の分析だと、仕事にあぶれがちのニートやフリーターといった二十代三十代のいわばロストジェネレイションの人生への不安、不満を踏まえての共感だろうという。むべなるかなという気がする。
小説の流行(はや)りすたりなるものは、それが描く風俗も含めて時代の風や流れに染まりやすいが、さらにその芯に在る本質的なものを見逃してはなるま い。『蟹工船』の人気は組織としての企業と個人の自我の対立という図式でくくられようが、この現代における太宰治の小説の突然の人気のいわれにはもっと深 く危ういものがある。
それは太宰の責任というよりも時代の責任ともいうべきもので、大袈裟ではなしにこうした兆候は、日本という国家の衰運を強く暗示していると思われる。太宰の小説を生理的にどうにも好まない私は、こじつけではなしに、こうした世の中の兆候を好まないし危ういものと思う。
太宰の小説そのものは好き嫌いの対象たりえても危険なものではないが、それを極めて好むという現代の風潮には大層危ういものがある。かつて三島由紀夫氏 は「太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう」といっていた。いい得て妙だが、それを極めて好むという今の世 の風潮はなかなかラジオ体操くらいではなおるまい。
太宰に重ねていえば、彼は何度も自殺、それも一人で死ぬ度胸がないから女を巻き添えに心中を図った。最初は自分だけは生き残ったが相手は殺してしまい、最後の最後は情死して果てたが、この国も実は今のままでいけば衰弱のはてに自殺しようとしているように思えてならない。
彼の小説を好む現代の若い世代はその兆候を漠然と予感して、彼とのアイデンティティを抱えているのではあるまいか。
彼等がしきりに共感する太宰治の自意識の構造とは、自己否定による、実は自己愛。自己嫌悪による、実は己への愛着だが、私にはそれがなんともいじましく 好きにはなれない。太宰の作品についての好き嫌いはあくまで個人のことだが、それが国家そのものの時代的性格となれば看過はできまい。
さらに太宰の虚弱な性格は、その跳ね返りとして他人からの説得を受け入れられない。具合の悪いことはへらへら笑って聞き流す。三島氏はある時彼の催して いた会合にわざわざ出かけていき、「僕が今日ここへ来たのはあなたが嫌いだからですよ」と敢えていったら太宰はにやにや笑ってみせ、「それは君が、実は僕 のことが好きだからだよ」といったそうな。そうした姿勢での自己平定、自己満足。これは他国からの愚弄を愚弄と受けられずに過している今の日本に酷似して いる。
これも昨今の日本のメディアの総じての日本論に酷似している。
これは実は対人恐怖症のメカニズムだと斎藤氏は分析するが、極めて日本人的な自意識のパターンともいえる。日本人の半分近くには対人恐怖症が潜在してい るそうだが、それは当然外部からの自己遮断をもたらし限られたコミュニケイションをしか享受しえない。その結果日頃感じている孤独感は自業自得のものだ が、それを自ら克服する意欲を持ちにくい。
国家としては、それで誰かを巻きこんでの心中とはいくまいが、今日の日本という国家の態様は、無為と愚痴の果てに野垂れ死にする浮浪者に酷似しているといえそうだ。
こうした内向性からの蘇生(そせい)はいつも外からの衝撃を安易に待つ、太宰の場合には文学賞を渇仰し、そのためにあられもない哀願の手紙を文学の先達 たちに書き散らしたが報いられはしなかった。この国の場合には、過去さまざまな外圧に屈して多大な自己犠牲を強いられてきた。
その根底には被虐に通じる民族的な受動性がある。その民族性とは、前にも記したが日本の特異な風土がもたらしたものだ。日本を取りまく海は世界で最も危 険な水域で、その証しとして、新聞やテレビに載る天気図に、年平均して毎日複数の低気圧、つまり嵐が記載されているような国はどこにもありはしない。加え て毎年二十近い台風が襲ってくる。ゆえにも日本を取り巻く海は世界一予測が困難で恐ろしい。私は世界中の海でヨットレースをしてきたからよくわかる。
かつて新しい文明を求めて大陸に渡って勉学した遣唐使、遣隋使たちが渡航の度に払った犠牲の痛ましさがそれを明かしている。
周囲を海に取り囲まれたこの国に住む人間たちの性格は故にもその海の険しさに抑圧規制され、あくまでも受動的な、自己主張に乏しいものになってきた。それは裏返すと冷静な相対感覚を欠いた被虐感に繋がっていく。
それを表象するのが、昨今の日本のメディアの傾向で、しきりに他人の弱点や挫折を暴いて喜ぶ嗜虐性は、実はそのままひっくり覆って社会あげての自虐性の露呈でしかない。
例えば不可欠な日米関係についてもアメリカの大統領の滞在期間が短いというだけで、世間体にこだわり自虐的に「日本パッシング」などと唱え回るが、その克服に何をするかなどという案は一向に出てこない。
こうした兆候は所詮「弱者」のものでしかないが、太宰文学の流行が示す若い世代の、弱々しさへの時代的な共感は彼等が担うはずの次の時代のこの国の衰運を予見させるような気がしてならない。
自己否定に依る自己愛も一種のナルシズムかも知れないが、それは自惚(うぬぼ)れにもならず、いたずらな内向をそそるだけで何を生みだすこともありはしまい。
さてこの閉鎖的な状況の克服のために我々は一体何を試み志したらいいのだろうか。将来私たちを足下から掬(すく)うような途方もない外圧が到来するかも知れぬ可能性はあり得るが、窮余の策としていたずらにそれを待つということでは国家民族としてはいかにも情けない。
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