最終党 小沢氏に流れるDNAなのか???
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【小沢氏来韓】「在日韓国人ら外国人地方参政権を現実化させる」
小沢一郎民主党幹事長は、古代から韓日が近い関係だという点を語り、東京大学考古歴史学者だった江上波夫教授から直接聞いた「騎馬民族日本征服説」を紹介した。「韓半島南部の地域権力者が海を渡って来て今の奈良県に政権を樹立したという」と語った。「この話をもっと強調すれば日本に帰れないから、これ以上強く話すことはできない」と話すと、聴衆から笑いが起こった。「天皇も、8世紀の桓武天皇の生母は百済(ペクチェ)の武寧(ムリョン)王の子孫だと言われた」とし「韓日両国はいちばん近い国として、相互間の真の信頼・協力関係を造成すれば北東アジアと世界の平和安定に重要な歴史的使命を果たすことができる」と語った。
小沢幹事長はこの日、天皇の来年の訪韓の可能性についても言及した。講演に続き、曺薫鉉(チョ・フンヒョン)九段と対局を終えた後、記者たちの質問に「韓国民が受け入れて歓迎してくれれば(来年の天皇の韓国訪問は)成り立つと思う」と述べた。9月、李明博(イ・ミョンバク)大統領は、韓日強制併合100年を迎える来年、天皇の招請の意思を明らかにしている。日本政府は「天皇が政治にかかわる行動はできないと憲法で規定されている」と述べた。
小沢氏は講演で、韓日両国問題解決として日本の積極的役割を特に強調した。「両国間にはいまだ問題が存在するが、これを解決していかなければならない。これは韓国の責任というより、日本が積極的に提示していかなければならない立場だ」と述べた。在日韓国人ら外国人地方参政権についても前向きだった。「日本政府が法案を出さなければならないと思っており、鳩山首相と現政府内閣は考えが同じだと思う」とし「来年、国会で現実化されるだろう」と述べた。「この問題は日本が積極的に臨まなければならない」とも付け加えた。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=112533&servcode=A00§code=A10
小沢代表「日本が済州島を買ってしまおう、今がチャンス」
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小沢一郎日本民主党代表が最近のウォン安円高を利用して「済州島(チェジュド)を買ってしまおう」と発言したことが伝えられ、波紋が予想されている。
12日の共同通信など日本のマスコミによると、小沢代表は先月、日本労働組合総連合会の笹森清元会長にこのように述べたという。 小沢代表は次期首相の有力候補の一人だが、最近の裏金事件で危機に直面している。
こうした事実は、笹森元会長が11日晩に東京で開かれた会合で小沢代表との対話内容を紹介したことで、マスコミに知られた。
小沢代表は先月、笹森元会長に「長崎県の対馬についてどう思うか」と尋ね、笹森元会長は「対馬の問題を心配している。 (韓国の)ウォン経済に買われてしまいそうだ」と答えたという。すると小沢代表は「今は円高ウォン安だから済州島を買ってしまおう。 今が絶好のチャンスだ」と答えた。
笹森元会長は「小沢代表の発言は、日本が他の国と肩を並べるためには当たり前のことを考えていてはだめだという趣旨のようだった」と解釈した。 しかし笹森元会長は、小沢代表といつ、どこでそのような対話をしたかについては公開しなかった。
済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[1]。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。
概要 [編集]
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソビエト連邦軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザン(を称する)金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[1]。1947年3月1日、南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[1]。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や右翼青年団を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになり、1948年4月3日に島民が武装蜂起するにいたった[1]。
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。この段階では、警察および右派の死者は12名、武装蜂起側の死者は2名と、犠牲者は双方とも少数であった。
事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、米軍の介入と北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。蜂起は朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、および西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、可愛らしい少女達を連れ出し、数週間に渡って輪姦した後に殺害した[2]。1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。
1950年に南北朝鮮労働党が合併し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。
歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、当時の日本政府の防止策をかいくぐって新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止をやぶって朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが、四・三事件の難を逃れようとした済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。事件前(1948年)に28万人[3]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[4]。
朝鮮労働党が絡むとされる上、犠牲者が余りにも多く、「反共」を国是に掲げ、軍事独裁国家であった韓国では責任の追及が公的になされていない。また事件を語ることはタブー視されてきたので、未だ事件の詳細は不明である。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した[5]。
日本にいる済州島出身の在日韓国・朝鮮人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度をあらわし始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている[6]。
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