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朝青龍が引退表明 場所中の暴行騒ぎで

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朝青龍が引退表明 

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場所中の暴行騒ぎで

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http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/100204/mrt1002041514006-n1.htm

現代の「王様殺し

なんだかイジメに遭っているようで、可哀そうな朝青龍

相撲は国技ではなくて興行なんだから??

相撲取りに徳目を求めるの愚

またマスコミが、さんざん持ち上げて利用した神(王様)が殺された!!

紙が神(王様)を殺した・・・・か?

↓ここいらが真相だろう!!

http://www.zakzak.co.jp/life/human/news/20100203/hmn1002031637000-n2.htm

自身の酒癖もさることながら、実はもうひとつシタリ顔で事件について語ることができない「困った」事情がある。それというのも、実は朝青龍関とも被害者の男性とも酒席を何度かともにした顔見知りだからなのだ。

 事件の内容については、連日連夜スポーツ紙やテレビで報道されているのでこの場では割愛させていただく。

 被害者の男性とはもう5年近く会っていないが、若いころは修羅場を潜って生きてきた男である。当然、肝も据わっており機転も利く。たとえ相手が横綱でも、酔って暴れる相手に、素直に「ゴメンナサイ!」というタイプではない。対する朝青龍関もあの通りの暴れん坊。

  考えるに、笑ってしまうぐらい、お互いツッパリあった揚げ句、あれよあれよと騒動が拡大してしまったということであろう。本来なら一夜明ければ、電話1本 で笑って済む話がこんな展開になるとはガキ大将がそのまま大人になってしまったようなご両人たちもまったく思っていなかったんではないか。

 横綱は天下の公人なので、厳しい処分が下されるのは致し方ない。しかし、朝青龍関のどうにも素直すぎる一面を知るだけに、チト可哀相な気がするのも確か。

  それに今回の事件が原因となり、朝青龍関が相撲界から去るようなことになるのは、被害者男性の本意ではないとも思う。そうなれば、彼にも「横綱を辞めさせ た男」としての重荷が一生ついて回る。できることなら、最後にもう一度だけ朝青龍関にチャンスを与えてあげるのが2人にとって一番いい解決策では…。こん な風に考えているのは私だけだろうか。押忍!

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/091001/med0910010337000-n1.htm

【正論】メディアが作る現代「王様殺し」 社会学者・加藤秀俊

イケニエの候補者の目印

 「一目小僧(ひとつめこぞう)」というバケモノのことはご存じだろうが、あれは神様にイケニエをささげる慣習があったころの遺制だ、という説がある。簡単にいえば神様をお祭りするときに、人間をひとり殺して奉納するのである。そのイケニエの候補者を識別するために、あらかじめその眼球に傷をつけて目印にしておく。それが「一目小僧」の起源だというのである。だれを「一目小僧」にするかは村や部族の占い師が決定したもののようである。

 殺されるというのは、あんまり愉快なことではないけれども、太古のひとびとはイケニエにされることでみずからも神様の一部になると信じて従容(しょうよう)として死についたのだろう。それにイケニエの候補者として目印をつけられた人間はその生存中から神聖な存在としてだいじに取り扱われた。奉(たてまつ)られ、厚遇され、しばしば神様と同格のもの、とみなされた。

 日本だけではない。フレーザーの有名な『金枝篇』という書物には「殺される王」という章があり、世界じゅう、どこでも王様はしばしば殺されたという事例がたくさんあげられている。いや王様が殺されたのではない。正確にいえば最終的には殺すために王様という存在をつくりあげたのである。殺されるかわりに、生きているあいだは尊敬され、ゼイタクもさせてもらえる。要するに「神聖な王」は殺されるべく運命づけられていたのだ。

祭り上げて「殺す」儀式

 なぜこんなめんどうな民俗学の学説をひきあいにだしたか、といえばテレビのタレント某々の麻薬事件の報道があまりにしつっこいからである。わたしは不覚にして、そのタレントたちのことをなにも知らなかった。しかし、事件発生以来、テレビのワイドショーが各局そろってこの人物たちのことを取り上げ、この話題に触れない日はほとんど一日としてなかった。事件の発覚からふた月が経過してもまだ余燼(よじん)がくすぶっている。これは尋常ではない。

 だが、これらタレント諸氏がそれまで「神聖な王」として畏敬(いけい)の対象であったとすれば得心がゆく。その「神聖な王」のことを現代用語では「アイドル」という。日本語でいえば「偶像」である。その「偶像殺し」の儀式があのワイドショーだったのである。偶像が偉大であればあるほど、それに比例してそれを「殺す」儀式は壮大でなければならぬ。

 そこらの無名の人間が麻薬乱用で逮捕されようと有罪判決をうけようと、そんなことはニュースにはならない。しかし尊崇(そんすう)を一身にあつめる偶像となれば事情はちがう。なにしろ相手は神様である。神様殺しは入念、ていねい、そして執拗(しつよう)につづけられなければならぬ。そして尊崇の念が深かったら、それに比例して悪口雑言をきわめて呪詛(じゅそ)し、見るも無惨(むざん)な方法でなぶり殺しにかかるのである。これが現代版の「殺される王」の運命なのである。

 偶像、つまり現代の神々をつくり、いったん「祭り上げ」ておいて、飽きてくるとこんどはそれを「殺す」という手法はべつだん新手法ではない。タレント、歌手、その他あれこれの偶像はテレビ局、プロダクション、芸能ジャーナリズムが共謀して制作する。新人登場というので写真をとる、番組に出演させる、虚実とりまぜゴシップをつぎつぎに流す、「スター誕生」である。

芸能リポーター驚く豹変

 スターなのだから、やがて収入もふえる。高級マンションを購入する。身辺、ことごとくブランド品にかこまれ、一流レストランなどに姿をあらわす。いよいよ「王様」の登場である。さりながら、それもおおむね長くはつづかない。もう、このへんでいいだろう、と見切りをつけて芸能ジャーナリズムはこんどは「王様殺し」にとりかかる。神々の世界も新陳代謝がはげしいから、適当な時期にあたらしい王様を制作してそれまで君臨していた偶像を叩(たた)き落とし、殺すのである。こんどの一連の事件もそうだった。

こうした「祭り上げ」と「王様殺し」の役割を一手にひきうけているのがマス・メディアである。ついきのうまで、才能がある、利口だ、美女だ、と口をきわめて絶賛していた芸能リポーターが、突如としてこんどは醜聞を報じ、脱税を難じ、酒乱、暴行、あげくの果てに麻薬まで、悪事をことごとく暴露する。いったいぜんたい、同一人物がどうしてかくも豹変(ひょうへん)できるのであろうか。わたしにはリポーター、ジャーナリストなるものの心性が納得できかねるのだが、占い師のいなくなった現在、「一目小僧」を選定するのはマスコミなのだからしかたない。

 政治、政党、政治家についても「祭り上げ」と「王様殺し」の循環がここ何十年もくりかえされている。きょうの王様は来年にはイケニエになる運命が待ち受けている。それを承知で、かれらはつねに「次」そして「次の次」を夢想し、みずからが「一目小僧」に選ばれるのを待っているのである。(かとう ひでとし)

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