何が権力か 秦野章
今朝、電車で秦野章さんの名著「何が権力か」は何年ころの発刊だったっけか??とIモードでググると・・・なんと、私のバカビデオが三番目、そしてこのバカブログが4・5番でヒット??
そうかそうかとニヤニヤしつつ、いったいビデオは何回転してんだ??と見れば・・・
たったの43回転・・・・・なーんだがっかり・・・この43件中10件くらいは自分のアクセスだと思うし・・・・
まあ、しかし、それほど忘れ去られた本なのかも???
小沢さんも宗男さんも読んでいることだろう!!??
ちなみに発刊されたのは1984年の7月だから・・・・昭和59年7月
秦野章
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E7%A7%A6%E9%87%8E%E7%AB%A0?site=BLK002&furl=http%3A%2F%2Ftalent.yahoo.co.jp%2Fpf%2Fdetail%2Fpp215408&ftitle=%E7%A7%A6%E9%87%8E%E7%AB%A0
1971年(昭和46年)には佐藤栄作首相の強い要請で東京都知事選挙に立候補する。公約として環七を高速道路、一般道、地下鉄の3層構造にするなどといった壮大な開発計画を盛り込んだ「4兆円ビジョン」を掲げたが、当時の東京は革新風潮が極めて強く、美濃部亮吉に100万票を超える大差で敗れ落選。
1974年に第10回参議院議員通常選挙に立候補し、初当選。以後当選2回。無派閥ながら田中角栄元首相に近かったことから、1982年、第1次中曽根内閣の法務大臣に就任した際は、元首相へのロッキード事件の第一審判決を間近に控えていたこともあって、「角栄のごり押し人事」と批判を浴びた。秦野は事件とは無関係であったが、没後の2006年に、ロッキード社からの5億円が丸紅を 経由して田中に渡された際、田中首相の判断で5億円の一部が、(参議院選挙候補者の一人として)秦野へ手渡されていたことが判明している。田中を擁護し、 「嘱託尋問は違法である」など、捜査を進める検察への批判を繰り返している。また自著において法相時代を回顧し、「田中が一審で無罪判決となった場合、検 察に控訴をさせないために指揮権を発動する心積もりであった」としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84
田中 角榮(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家。元衆議院議員(16期)、内閣総理大臣(第64代、第65代)。初の大正生まれの内閣総理大臣である。
高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力や、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も最大派閥となった田中派(木曜クラブ)を背景に政局に対する発言力を保ち続け、「(目白の)闇将軍」の異名を執った。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に後年功罪と言われる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
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