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粛清(しゅくせい) 中国共産党

生方副幹事長を解任=小沢氏批判を問題視-民主

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100318-00000219-jij-pol

3月18日21時7分配信 時事通信

 中国民主党の高嶋良充筆頭副幹事長は18日午後、生方幸夫副幹事長を党本部に呼び、執行部批判が目立つとして、副幹事長の職を辞任するよう要求した。生方氏が拒否したため、執行部は同氏を解任し、後任に辻恵衆院議員を決めた。小沢一郎幹事長に批判的な言動を締め付ける動きに党内からは反発が出ており、対立が再び強まりそうだ。
 生方氏は、政策調査会の復活を求めている党内有志の会の中心メンバー。小沢氏の党運営に批判的で、同氏の「政治とカネ」の問題でも説明責任を尽くすべきだと訴えてきた。執行部は、生方氏が一部新聞のインタビューで「今の民主党は権限と財源をどなたか1人が握っている」として、鳩山由紀夫首相に小沢氏を注意するよう求めたことを特に問題視した。
 高嶋氏は「党の幹部が外に向かって執行部批判をするのはおかしい」と非難。生方氏は「党内を何とか良くしようと思っての発言を封じたら、『言論の自由がない』ともっと言われる」と反論し、処分するのであれば党倫理委員会に諮って正式に手続きを踏むよう主張した。 

粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

粛清(しゅくせい、: purging)は、権力の場で、反対勢力や将来自分を脅かす存在になりそうな人物・勢力を排除することである。

多くの場合物理的暴力を伴い、政治犯死刑執行や追放をはじめとして、刺客による暗殺強制収容所への送致もこれに含める。

粛清は、革命反革命クーデター弾圧の一場面としても行なわれる事も多い。共産主義独裁国家においては体制を保つ為に必ずと言って良いほど発生する。特に新たな独裁政権が誕生した時は、将来自分または後継者を脅かしそうな存在に対して行われる。

よく同音異義語の「粛正」と混同されるが、こちらは「綱紀粛正」などに見られるように「組織内部を正すこと」を意味する。

概説 [編集]

ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、最盛期であった1937年から1938年までに、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所刑務所へ送られた[1]。ただし反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は最も大きな打撃を受け、旧指導層は完膚なきまでに絶滅された。地区委員会、州委員会、共和国委員会が丸ごと消滅した。1934年の第17回党大会の1966人の代議員中、1108人が逮捕され、その大半が銃殺された。1934年の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。1940年にトロツキーがメキシコで殺された後は、レーニン時代の高級指導部で生き残っているのはスターリンだけであった。また大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中わずか3%が次の大会(1939年)に出席しただけであった。1939年の党の正式メンバーのうち、70パーセントは1929年以降の入党――つまりスターリン期の入党――であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。党の討論機関たる大会と中央委員会は――終には政治局さえも――1939年以後、スターリンが1953年に死ぬまでめったに開かれなくなった[2]

なおロシア語における「粛清чистка, chistkaの本来の意味は、「党員としてふさわしくない人間を党から除名する」ことを意味する。ロシア本国には、英語のGreat Purgeの露訳に該当するБольшая чисткаという歴史用語は存在せず、理解されない。通常はスターリンによる「大量抑圧」массовая репрессия、「エジョフシチナ」Ежовщинаと呼ばれる。現在では学界を中心に、大粛清のテロルとしての面を強調する立場から「大テロル」の呼称が拡がりを見せつつある。正確には、この「大テロル」という用語か、スターリン時代の「大量抑圧」という用語が用いられるべきであろう。

大粛清の始まり [編集]

ウラジーミル・レーニンの死後、党内の実権を掌握したスターリンであったが、共産党の中には古参党員を中心にスターリンの暴走を掣肘しようという者が多数存在した。そんな中、1934年12月に共産党幹部セルゲイ・キーロフが、レオニード・ニコラエフという青年に暗殺されるという事件がおこる。この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが部下のゲンリフ・ヤゴーダに命じ暗殺させたという説が有力視されているが真相は不明である。

スターリンは、この犯人グループはトロツキー一派であるというでっちあげをおこない、その逮捕を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。スターリンは1937年3月の共産党中央委員会総会において、キーロフ事件以後の「教訓」として「階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう」などとする階級闘争激化論を定式化し、大粛清を開始した。

まずレニングラードの共産党関係者が5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。さらにかつて反トロツキーでスターリンと手を組んでいた大物たち、カーメネフジノヴィエフらも「合同本部陰謀事件」を企んだとして逮捕され、1936年の第一次モスクワ裁判にかけて銃殺刑に処した。先に逮捕されたレニングラード共産党の関係者5000人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。スターリン時代最初の大規模殺戮だった。

しかしこれはまだ序の口で、粛清はこの後さらに過激さを増すことになる。ソ連では1934年7月以来NKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー)が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮をとっていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月にはヤゴーダを解任した(ヤゴーダも1937年に逮捕され、1938年3月に銃殺された)。後任のニコライ・エジョフのもとで、粛清の規模は一気に拡大することとなった。6

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