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悔恨共同体

田原総一朗の政財界「ここだけの話」
批判ばかりで対案を出せない「戦後リベラル」の限界

終戦から現在に至るまで「戦後リベラル」はポピュリズムと温情主義に陥り、日本の社会を変えられなかったのはなぜか――。そんなテーマで書かれ、朝日新聞批判がひとつの柱になっているのが経済学者・池田信夫さんの著書『戦後リベラルの終焉』(PHP新書)である。
丸山眞男が名付けた「悔恨共同体」

 リベラルとは本来、自由主義(リベラリズム)をいう言葉だが、米国では「大きな政府」を志向する人々をさす。それが日本では中道左派の人たちが左翼という言葉を嫌ってリベラルと自称するようになったといい、池田さんはそうした日本的な左翼を「戦後リベラル」と呼ぶ。

 「戦後リベラル」の基本は、反戦・平和を至上目的とし、戦争について考えないことが平和を守ることというものだ。そして、憲法改正反対、反原発、米軍普天間基地の辺野古移設反対、集団的自衛権行使反対、特定秘密保護法反対を唱える。「リベラル」のメディアといえば、朝日新聞や毎日新聞、東京新聞ということになるだろう。

 戦後、政治学者の丸山眞男さんに代表される「進歩的文化人」と呼ばれる人たちがいた。彼らは戦後日本の論調の主流であった。その丸山眞男さんが「悔恨共同体」という興味深いことを述べている。実は私などは、「悔恨共同体」から脱却できないことが、自分で気づかない私自身の限界かと思うこともある。
日本がまともに考えなければいけないとき

 「悔恨共同体」とは、「この戦争はおかしいと思いながらもそれを止めることができなかったという悔恨が、戦後の知識人の出発点だった」とし、そうした自責の念を共有する知識人の集まりのことである。

 池田さんはこう指摘する。「悔恨は戦争体験とともに風化し、『否定の情熱』だった民主主義は制度化され、知識人はもとのタコツボに戻ってしまう。こうして悔恨共同体は消えたが、その劣化した『日本的リベラル共同体』は野党やマスコミなどの亜インテリに残った」

 私は東西冷戦が終わるまでは「悔恨共同体」でよかったのではないかと考える。冷戦の最中は米国を中軸とする西側(資本主義陣営)とソ連を中軸とする東側(共産主義陣営)の対立があり、日本は世界の中でどう動くかを独自に考えることはできなかった。日米安保条約のもとで米国に守ってもらえばよかったのだ。

 だが、冷戦が終わり、しかも米国が「世界の警察官」を辞めると言い出した今、日本は世界の中でどうすればよいのだろうか。外交、安全保障、経済の分野で、日本はまともに考えなければいけないときが来たのである。実際、対米追従ではなく、日本が独自に考えなければいけない問題は次々と起きている。

AIIB、日本人人質事件でも外交、情報収集力が試される

 中国主導で設立されるアジアインフラ投資銀行(AIIB)の問題がある。アジアにおけるインフラ整備のため、今後10年間で約8兆ドル(960兆円)もの巨大投資が必要とされ、その資金ニーズに応えることを目的とした新たな国際金融機関なのだが、その創設には中国の野望があると指摘される。

 「公正なガバナンス(統治)を確保できるのか」「巨額の出資について不透明だ」として疑問視する日米は当初、先進7カ国はAIIB創設に参加しないだろうと見ていた。

 ところが、3月12日にイギリスが参加を表明すると、3月17日にはドイツ、フランス、イタリアが雪崩を打つように参加を表明する。結局、日米は創設メンバーとして参加することなく、いわば孤立するような形で新たな発展のチャンスを逃してしまったのである。

 日本は、米国は戦略的にAIIBには参加しないと読んでいたが、実際は違った。オバマ大統領は参加したいと考えたようだが、議会が反対した。今、米連邦議会は上院も下院も共和党が多数派を占めている。

 過激派組織「イスラム国」(IS)による日本人人質事件でも、日本は情報収集力と外交が試された。後藤健二さんと湯川遥菜さんを救出するため、日本政府はヨルダンやトルコに協力を依頼したものの、日本政府はISと直接パイプをつくることができなかった。独自で有効な手を何も打てなかったのである。

日本にも国際情報戦略が必要に

 AIIB問題でも日本人人質事件でも、日本は情報戦略で劣っていることが明らかになった。日本は戦後、大型爆撃機も長距離ミサイルも、もちろん核兵器も持つわけでなく、軽武装を貫いてきた。そうであれば「長い耳」、つまり国際情報戦略を持たなくてはならない。

 しかし日本は今、軽武装でありながら「長い耳」を持っていない。誤解を恐れずに言えば、「日本版CIA(米中央情報局)」とまでは言わないが、せめてイギリスの秘密情報部(SIS)のような情報機関をもつ必要があるだろう。

 ところが、日本の今の社会状況では、「そんなことを考えるのは軍国主義者か」と思われてしまう。国際情報戦略を強化することに国民の理解を得るのはなかなか難しいことなのかもしれない。

 ある大手新聞の主筆にこう問うたことがある。「あなたの新聞は、いい加減に社会党的な体質から脱却すべきだ。社会党は政府のやることは何でも反対し、批判した。少しは対案を出すべきだろう。新聞も同じだ」

 すると主筆はこう答えた。「対案を出すのには才能がいる。努力もいる。金も時間もいる。しかし、批判なら何もいらない。うちの読者には土井たか子さんのファンが多いから、ヘタに対案など出せば部数が減ってしまう」

対案を出せないのが「戦後リベラル」の限界

 「戦後リベラル」の限界とは、批判しかせず、対案を出せないことにある。私はそう考える。

 2013年7月の参院選、2014年12月の衆院選で、私は安倍政権が進めるアベノミクスの批判しかしない各野党の党首たちにこう言った。「高度成長の時代は、国民は批判に耳を貸すゆとりがあった。しかし今、そうしたゆとりはない。各党が自民党に対抗しようとするなら、わが党ならこうするという対案を示すべきだ」。だが、どの党も対案を示せなかった。

 批判しかしないというのが「戦後リベラル」のひとつの特徴であろう。池田さんは、「『平和憲法を守れ』とか『非武装中立』のような理念を対置しても、ほとんどの国民は関心をもたない。彼らの生活を改善する具体的な対案を左翼は出せなかったのだ」と書いている。

 私は、池田さんのそうした指摘が大変おもしろく、まさに「私自身に突き付けられた問題」という思いがした。

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